うたかた 01
万事屋の玄関を開けた途端、嗅いだことのない香りがふわりと鼻腔をついて、土方は首をかしげた。
香とは珍しい――となんの気なしに浮かんだ思考を、次の瞬間にはまさか、と打ち消す。香をたくような趣味など、この家の主が持ち合わせているとは思えない。
だが、香りのもとを辿りめぐらせた視線は、部屋の隅に置かれている小さな香炉を見つけた。
そこから白い煙が漂い出ては、空気に溶けいるように掻き消えていく。
この部屋には――というより、この部屋の主には似つかわしくない光景だ。だがそれ以上に引っかかるものを覚え、土方は眉をひそめた。
ゆらゆらと香煙をくゆらせている真鍮製の小さな香炉、それに見覚えがある。
――行きたいと思った時間、どの時にでも往けますよ
数日前に聞いた声が脳裏に蘇り、土方の眉間の皺がますます深くなった。
* * *
「気になることがおありのようだね、お兄さん」
いつものように見廻りで市中を歩いていると横合いから唐突にそう声をかけられて、土方は足を止めた。声の方を見れば、ひと目で天人だとわかる不思議な色の肌をした、白いひげの老人がいる。
怪しげな風体に、土方は関わらない方が得策か――即座にそう判断した。
「――んなもんねェよ」
それだけ告げて立ち去ろうとする土方に、老人はまたまた、と含み笑う。
「お兄さんの心の中に、ひとつの存在がある。それが気になって仕方ないのだろう?」
言われ、内心ギクリとしたものの、ねーよ、と表情に出ないよう押し殺した。
だが老人はその心中の動きを察したのだろう、やはりねェ、などと鷹揚にうなずく。
「ならばこれを使うといい」
老人が痩せた腕を差し出した。なんだ、と見れば、その手には真鍮製の小振りの香炉が乗っている。
せっかくだが、と土方はため息をついた。
「あいにく、香を聞くような趣味はねェ」
「ただの香じゃないよ、お兄さん。こいつはね、時を往き来できる香だ」
老人の言葉に、土方ははァ?、と眉根を寄せた。胡散臭さもあらわに見やる土方に、けれど天人の老人は飄々と続ける。
「過去でも未来でも――あなたの体が存在している時間なら、行きたいと思った時間、どの時にでも往けますよ」
* * *
結局土方はいらないと固辞し、その場を去ったのだが、部屋の隅に置かれているのはそのとき老人が差し出したものと同じ香炉だ。
あの老人に会ったのか、と奇妙な偶然に驚くより、なんでそれがここにあるんだ、と疑問に――否、不審に思う。
「…なに掴まされてんだてめーは」
ソファに転がっている家主をじとりと見やれば、銀時は一瞬ギクリと表情を強ばらせた。
「いやいや、なんのことだか銀さんさっぱり」
「とぼけんな。白いひげの怪しいジイさんに売りつけられたんだろーが」
「買ってねェよ。んな金あるか。くれるっつーから貰ってきたんだよ」
言い放ち、あ、と口許を押さえる銀時に、土方は半眼になる。
やはり先日土方に声をかけてきた老人から手に入れたものらしい。
アホか、と思わず口にすれば、のそりと半身を起こした銀時は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
困ったような視線は土方を避け、あらぬ方を彷徨っている。
その姿に、土方は言いようのない苛立ちを感じた。
――気になることがおありのようだね。
――行きたいと思った時間、どの時にでも往けますよ。
老人が銀時に対しても同じことを言ったかどうかはわからない。
けれど、もし、そんな遣り取りの末に銀時がこの香炉を貰い受けてきたのだとしたら、それは老人の言葉を肯定し、「行きたいと思う時間」があるということではないのか。
「――見たい先でもあんのか、それとも…やり直してェ過去でもあんのか」
聞きたいような、聞きたくないような――そんな複雑な心情から、問う声は小さくなった。
届かなくてもいいと投げやりに思っていたのに、しっかり聞き取ったのだろう、銀時がきょとと目を丸くする。
「え、なに、土方君、あのジイさんが言ったこと本気にしてんの?ちょ、痛くね?ソレ、痛くね?」
「ちゃっかり貰ってきてる奴に言われたかねェよ!」
「おめーのヤニの匂いごまかすのに丁度いいかと思ったんだよ」
ただの香だろー?、と返す銀時からは、確かに老人が言った不可思議な効力を期待しているような素振りは見られない。
けれど、それだけでこんな怪しげな物を貰ってくるだろうか――土方が黙り込んでいると、くい、と袖を引かれた。
なんだ、と見やった先で「それと」と銀時が楽しげに笑う。
「エロい効果があったら面白くねェ?」
「――アホか」
土方は盛大に顔をしかめた。
* * *
まだ昼の陽が射し込む時間だというのに、欲情に濡れた声と淫猥な水音が部屋の空気を震わせている。
「あっ、あっ、あ…!や、万事、屋」
突き上げられるたびに溢れてしまう自分の嬌声を、居た堪れないなどと思っていられたのも最初のうちだけだった。そんなまともな思考は、体の奥で燻る熱で、疾うに焼き切れている。
するりと内腿の際どいところを撫で上げられて、走った感覚に体が震えた。触れられてもいないのにすっかり勃ちあがった性器が体液をこぼし、しとどに濡れる。
そのさまに、銀時が笑みをこぼしたのがわかり、土方はきつく目を閉じた。
嫌な奴だ、と胸中で罵る。
銀時は挿入してからこっち、土方の性器に触れてもいない。それがわざとだというのは、わかっていた。
もどかしさに堪えられなくて自分で触ろうと下肢に手を伸ばしたが、その手は銀時に取られてしまった。涙の滲む目で見上げると、銀時は悪戯をたくらむ悪ガキのような笑顔を浮かべている。
「まだダメー」
「や、」
嫌だ、と頭を振りながらも、熱で蕩けた思考の片隅でまたか、と冷静に判じている自分がいた。
何が面白いのか、このところ銀時は土方を中の刺激だけでイかせようとする。今日もそうなのだろう。
恨みがましく睨みつけると、情欲を滲ませた赤い目が、に、と細められた。
「ちゃんとイかせてやっから」
言うなり、深く抉る律動が速くなった。どうしようもなく感じる箇所を滅茶苦茶に擦り上げられ、ザアと背筋が粟立つ。
全身を凶暴な快楽が暴れまわり、土方は目を見開いた。
「ん、あ、ああァッ!」
脊髄を駆ける怖いほどの快感に、悲鳴じみた声があがる。深く強い絶頂に頭は真っ白になり、体が不随意に震えた。
射精を伴わない絶頂は、体中に広がった快楽の波がひかず、いつまでも揺らめき続ける。それが土方は嫌だった。
その感覚は、酷く自分を脆くさせて、どうしようもない。どうしようもなくて銀時の背中に腕を回す。
縋りたいのか、それともこの感覚を紛らわせたいのか、それすらわからない。
けれど、背中に幾つも拵えている古い傷の一番大きな痕に触れると、自分を抱いているのが銀時なのだと強く実感できた。
銀時なのだ、と安堵し、同時に自分を取り戻せる――そんな風に思える。
身の内に燻り続ける熱を逃そうと大きく息を吐いた土方の脳裏に、ふと老人の言葉が蘇った。
――行きたいと思った時間、どの時にでも――
そう白いひげの老人から言われたとき、浮かんだのはこの傷痕だった。
この傷が出来たのはいつなのか、この男はどんな道を歩いてきたのか――気にならないと言えば嘘になる。
自分の知らない時間――銀時の過去を。
「――土方」
やわらかい声に目を向けると、銀時は声音同様の笑みを浮かべていた。
汗で張りついた前髪を掻きあげられ、あらわになった額に唇が落とされる。宥めるような口づけに目を細めると、こつ、と額が合わせられた。
覗き込んでくる赤い瞳を茫と見返しながら、知りたい――と、強く思った。
そのとき。
ふわり、と香が強く香った。
その甘ったるい匂いに眉をひそめた途端、くらり、と、酩酊しているような目眩を覚え、世界がねじれたかのように周囲が歪み――土方は意識を失った。
(11/01/15)
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