盆を手に現れた山崎が、どうぞ、と文机に湯のみを置く。ちらりとそちらを一瞥し、手を休めぬまま、ああ、とだけ返すと、副長――と山崎のため息が聞こえた。
「アンタたしか今日非番のはずですよね。なにしてんですか一体」
局長に見つかっても知りませんよ、などと続ける呆れたような山崎の声に、朝方の遣り取りを思い出す。
――気にしなくていいから、トシはちゃんと休むよーに。
わかった?、と念を押すように近藤からしつこく言われた。
本来なら今日は非番だった。予定も入っていたし、仕事をするつもりはなかったのだが、もうひとりの副長である男が負傷し身動きが取れないので、穴を埋めるためにこうして休みを返上している。
とはいえ、働きづめの土方を心配する近藤がいい顔をしない――実際、釘を刺されている――から、見廻りには出ず事務仕事にとどめているのだが。それでも見つかったら確かにうるさいだろうな、と土方は苦笑した。
「べつに無理してるワケでもねェ。休みをどう使おうが自由だろ」
「……ほどほどにしてくださいよ」
諦めたように言い置いて山崎が退室する。障子の閉まる音を聞きながら、土方は筆を置き息をついた。
何か厄介事があると仕事に逃げるのは、良くない癖だと自分でもわかっている。だが、どうにも混沌と渦巻く感情を上手く整理できそうになくて、結局土方は書類に集中していたのだ。
咎めながらも気遣うような気配だった山崎もそれを知っているのだろう。生意気なことを言っていた監察から心配されていることがわかり、土方は渋面で煙草を咥えた。
一服しようとしたのだが、ライターが点かない。ガス切れか、と思わず舌打ちする。
マッチがなかったか、と畳に投げ出した上着のポケットに手を入れると、指先に紙切れが触れ、カサリと音を立てた。取り出したそれには、住所が書かれている。
土方は複雑な表情でそれを見つめた。
本当なら、今日、非番である自分はここに行くはずだったのだ――ついえた約束と五日前の遣り取りを思い返し、土方はため息を落とした。
五日前のその日、夜勤を終えた土方が自室に戻ると、帰りを待っていたのか時を置かずして銀時が現れた。着替えるから出て行け、と睨む土方をよそに腰をおろし、お構いなく続けて、などと返す始末だ。チ、と舌打ちしながらも土方が単衣に着替えていると、銀時が唐突に訊ねてきた。
「おめー来週非番だよな?」
「それがどーした」
「なんか予定入ってんの?」
帯を締める手を止めずに返せば、さらに問いが投げられる。
「いや、べつになにも」
着替え終えて振り返ると、銀時が来い来い、と手で招いた。なんだよ、と向かいに座った土方の手を取り、何かを握らせる。
「はい、コレ」
「あ?」
渡されたのは一枚の紙切れだった。なんだと中を見れば、どこのものやら住所が書かれている。
「――んだ、コレ。スナックお登勢二階――?」
どこかで聞いた店名だ、と眉根を寄せる土方に、銀時はするりと身を寄せた。後ろから抱き込むようにして土方の肩に顎を乗せる。
「俺が借りてる家。まァ最近じゃめったに行かねーけど」
銀時の返事に、ああ、と得心がいった。スナックお登勢――銀時を拾い、松平に預けたという女主の店の名だ、覚えがあって当然だ。当然だが、
「――で?」
住所を知らされるような覚えはない。
話が見えなくて土方が首をかしげると、銀時はとん、と指先でその住所を指し示した。
「俺、その日昼であがるから、先にここ行ってて」
「って、待てオイ。おめーその日は夕方まで見廻り入ってんだろーが、なに今からサボろうとしてやがんだコラ」
首をひねるようにして後ろから抱きついている男を睨むが、銀時は平然とその眼を受け流した。
「大丈夫大丈夫、既に根回し済みだから。その辺は他の奴らで上手くやってもらうことになってっから大丈夫」
「大丈夫、じゃねェよ。つーか他の奴巻き込んでまでサボろうたァどーいう了見だてめェ。ちったァ立場考えろっつってんだろーが」
「まあまあ、そーいうお説教はあとで聞くから」
「今聞け! そしてサボんな!!」
「おめーが屯所の中はぜってェ嫌だ、ホテルも勘弁、青姦なんかもっての他だ死ね、とか言うからだろォォォ! あとどーしろっつーんじゃァァアア!」
声を荒げたら銀時に逆ギレの如くがなり返され、土方はぴたりと動きを止めた。その内容で全てを悟る。途端、生じたのはどうしようもない脱力感とわずかな気恥ずかしさで、土方は「あ――……」と銀時から視線を逸らした。
先日、銀時に押し倒されたのも、土方の部屋でだった。
口づけられ、上顎の裏側を舌先で舐められると頭がじんと痺れた。舌を絡め合い、唾液を交わす深い口づけを解いた唇が、顎から首へとさがっていく。それを茫と感じていると、首筋を舐めあげられて思わず声がこぼれた。
「――ァ」
あえかなその声を恥ずかしいと感じる間もなく、するりとシャツの中に入り込んできた銀時の手が不穏な動きを見せる。びくりと体が竦み、土方は慌ててその手を掴んだ。
「ちょ……、おま、なにを――!」
「ん? 続き」
続き――と告げられた言葉の意味することを解し、土方は狼狽えた。待て待て待て、と首許に埋められた銀時の頭を無理矢理押しやる。
なに、と細められた赤い目を見返しながら、
「こ――ここじゃ、ダメだ!」
咄嗟に口をついて出たのは、そんな頑是ない子供のような言葉だった。
そう言って押しとどめたのは時間稼ぎもある。まだ踏ん切りがつかず、困惑ばかりが先行する行為を先延ばしにしたいというのが卑怯な本音だ。
だが、ここでコトに及ばれるのが本気で嫌だというのも事実だった。銀時もそれを感じ取ったのだろう。あ?、と眉根を寄せながらもぐるりと視線をめぐらせ、わずかに眉をさげた。
「――ここって、屯所の中ってこと?」
「ああ。いつ誰が来るかもわかんねーんだ、ぜってェ嫌だ」
土方が断固として言い放つと、銀時はわかった、とわずかに体を起こした。
「じゃあホテル行こーぜ、ラブホテル」
銀時の案に、土方はうわー、と半眼になった。その表情を見おろし、銀時が焦ったように口を開く。
「え、なにその反応!?」
「お前……野郎ふたりで入んのかよ、ンなトコに……。一応、顔割れてる方だって自覚あるか? お前」
「それ言ったらキャバクラ通いのストーカーゴリラはどーなんだよ!!」
「キャバクラは可愛いモンだとして、ストーカーは勘弁してほしいよなァ……」
土方が遠い目になると、ぐうと唸った銀時が胡乱な表情になった。
「わかった、青か――」
「死ね」
「どーしろっつーんじゃァァァ!!」
不埒なことを言いかける銀時を冷ややかに眺めながら遮ると、盛大に喚かれた。わしゃわしゃと髪を掻き回す銀時の鼻先に、とにかく、と土方は指を突きつける。
「ここではやらねェ。ぜってェ嫌だ。ホテルも勘弁、青姦なんざもっての他だ」
きっぱりと告げる土方に、銀時は今にも泣き出しそうだった。その情けない顔にちょっとほだされかけたが、内容が内容だけに退く訳にもいかない。
無言でしばし睨み合っていると、ややして銀時が恨みがましそうな声を落とした。
「……場所が問題なだけで、べつに俺とやりたくねーってワケじゃないんだな?」
「――ああ」
多分――と続く言葉は飲み込んだ。
わかった、と答え、銀時は口づけだけで引きさがった。――そのときは。
数日前の遣り取りを思い返して土方が言葉に詰まっていると、くるりと体を反転させられた。銀時が正面から覗き込んでくる。
「そこなら条件全部クリアしてるだろ?」
「――ああ」
途方に暮れる思いで銀時の声を聞きながらあらぬ方を見ていたら、頬を両手で挟まれ「土方」と視線を合わせるよう呼ばれた。渋々目を向けた先で銀時は、欲に色づきながらも困ったような笑みを浮かべている。
その表情に土方もまたどうしていいかわからず困惑していると、唇が重ねられた。やわらかく舌を食むような口づけがしだいに呼吸すら奪う気なのかと思うほど深められ、強く掻き抱かれるころには土方も縋るようにして銀時の背中にしがみついていた。
唇が離れ、はぁと酸素を取り込む土方に、銀時がすり、と頬を寄せる。
「マジもう限界。誰が見てよーがどこだろーが、押し倒して無理矢理やっちまいそうなくらい、限界」
耳許で落とされた、熱を帯びた低音にぞくりと背筋が震える。そんな声で恐ろしいことを口にする銀時に否やを言えるはずもなく、土方はわかった、とだけ返した。
だが、その約束を交わした二日後――つまり、三日前のことだ――事態が思わぬ方向に動き出した。
その日非番だった銀時がふらりと外出し、そのまま帰ってこなかったのだ。
朝帰り自体は珍しくもない。今回もそうなのだろうと気にとめなかったが、翌朝になっても銀時は戻らなかった。銀時だけでなく、新八も神楽も姿が見えないとなり、屯所内はにわかに騒然とした。すぐにでも捜索を、と狼狽える隊士たち――特に神楽隊の面々は酷く動揺していた――を制しながら、土方も嫌な胸騒ぎに顔をくもらせる。
銀時から渡されたメモを思い出し、見廻りがてらかぶき町へと向かったのは、予感めいた直感からだ。だから、サアサアと静かな雨が降る中、スナックお登勢を目指していた土方の前に銀時が現れたときも、さほど疑問に思わなかった。
銀時はうさぎのイラストが散りばめられた傘を差し、洋装の上に単衣を重ねておまけに片袖を抜いた奇妙な格好をしていた。その両手にも胸許にも包帯が巻かれているのが見える。
不意に顔をあげた銀時が土方の姿を認めた。しばし見つめ合った後、ふ、と微笑んだ男の表情に、土方はああ、と悟った。
「――行くのか」
どこへなのかも、何をするのかも、わからない。今この場で訊く気もない。けれど、この男は行くのだ、とそれだけは確信した。
きっと、何か――大切な何かを護り、自分を貫くために。
「ああ」
笑んだまま、銀時が答える。止めても無駄だということも、わかっていた。瞬間、とても嫌な薄暗い感情がぶわりと生じたが、土方はそれを押さえ込みなんでもない振りを装った。
「――今日だけだ。そうそう見逃してやると思うな」
「りょーかい」
すれ違いざま、ポン、と肩を叩かれた。目線だけ向ければ、笑みを湛えた赤い目とかち合う。
「約束、忘れんじゃねーぞ」
「忘れてほしくなきゃあさっさと帰ってこい」
土方が返すと、くすりと笑ったのが気配でわかる。そのまま遠ざかっていく気配を意識で追いながらも、背中を見送るようなことはしなかった。
その後、銀時は夕方、新八と神楽に抱えられて戻ってきた。
三人の姿にホッとしたのは土方だけではないだろう。屯所の門をくぐるなり大勢の隊士たちに囲まれていた光景が、それを伝える。
傷だらけでも、生きて帰ってきた。土方はそのことに心から安堵し――銀時を病院に叩き込んだ。
それが一昨日のことで、銀時は今もって入院中だ。土方が担当医師に当分病院から出さないよう言い含めているため、しばらくは謹慎がてら入院療養となるだろう。
新八と神楽には厳重注意の上に始末書と三日間の謹慎を言いつけていた。新八はもちろんのこと、珍しく殊勝な様子の神楽も、おとなしく命を守り部屋で書類に頭を悩ませている。
銀時が――銀時たちが何をして来たかは、山崎の調べでおおよそのことは知れた。
高杉一派による武装蜂起の姦計、高杉一派と桂陣営との衝突――そんな騒動があったことに、そしてその件を前もって掴めなかったことに愕然とし、そんな事態に銀時たちが関わっていたことに肝が冷えた。
――なにか言うことはあるか。
昨日、病院を訪れた際に訊ねたのは、そのひと言だけだった。知っているのだ、と含める土方に、けれど銀時はふわりと笑い、なんもねェよ、とだけ返した。
それは、その件に関して疚しいことは何もない――攘夷活動に手を貸した訳ではない、ということなのはわかっている。だが、弁解の言葉すらないのかと少しばかり苛立たしく思った。
せめて言い訳のひとつでもしてくれたなら、庇いようもあるのに――先日の苛立ちを思い返し、土方は深いため息を落とした。
いつまで知らぬ存ぜぬを貫き通せるのか――ごまかせるのか。幾度となく襲われた不安がまた湧き起こる。
松平が連れてきて、近藤以下土方や幹部たちから平の隊士までもが目を瞑っているとはいえ、今回のような騒動が起こると気が揉めて仕方がなかった。いつ銀時の過去が露見するか――既に一度、あの馬鹿は自分から暴露するような真似をしているから尚さらだ。
隊内では暗黙の了解として認識されている。箝口令を敷いている訳ではないが、普段の銀時を見ているからか、その件に関して口外したり不満を唱えるような者はひとりもいない。
だが、幕吏の中には真選組や松平を疎ましく思っている連中が確実にいる。攘夷活動に手を染めていないとはいえ、攘夷戦争に加わっていたこと自体、快く思わない輩もいるだろう。そういった連中が突つくには、銀時は格好の突破口となるのだ。
じわじわと腹の奥底に不安が広がっていく。
近藤には以前、桂との一件があったあと、一度だけ訊ねたことがある。いいのか――と。
近藤はおう、と笑って応えた。
――俺たちの役目は、護ることだ。ここにいる奴らァ全員、「護るために」剣を振るってる――そうだろ?
役目に反してはいない。だからいいのだ、と。
近藤のその言葉に、土方は内心胸を撫でおろしたのを覚えている。だが、こちら側のそんな主張など、幕府の連中に通じる訳がない、と頭の片隅で冷静に判じている自分もいた。
何か――どうにかできないのか、と思案に暮れていると、
「――トシ」
名を呼ぶ声と同時に障子が開かれ、土方はハッと我に返った。
声とその呼び方でわかっていたが、そこにいたのはやはり近藤だった。机に向かっている土方を見て、困ったような笑みを浮かべている。
「今日は仕事いいって言ったのにもー」
苦笑まじりの声に体を入り口の方へと向けると、近藤は土方の向かいに腰をおろした。
働きすぎだってトシは、とこぼす近藤を見つめ、護らなければ――と思う。自分が何よりも護らなければならないのは、目の前のこの人と、真選組だ。
まじまじと注視する土方を訝しみ、トシ?、と首をかしげる近藤に、近藤さん――とかけた声は自分でも意外なほど淡々と落ち着いていた。
「野郎をこのまま置いとくのは、正直危険だ」
山崎からの報告は、近藤にも上げてある。誰のことなのか――なんのことなのかは言わなくても通じただろう。
土方がじっと見つめる中、近藤は目をしばたたかせると破顔した。
「危険って言うなら、俺たち全員そうだろ。幕府のお偉方から見りゃあ、全員どこの馬の骨とも知れねーゴロツキの集まりよ、俺たちゃ。野郎に限ったことじゃねェさ」
「そういう次元の話じゃねェんだよ。下手すりゃ真選組は――」
言いさして、土方は結局ため息を落とした。近藤が、いいのだと一度認め懐に入れた者を突き放すような男でないことは、誰よりも良く知っている。
「――それでいいんだな?」
アンタは――と確認する土方に、近藤はからからと笑った。
「アイツはバカで甘いもん好きで白髪天然パーマな、俺たちの仲間だよ」
だろ?、と頭を撫でられる。土方はうつむき、みっともなく歪んでいるだろう顔を隠した。
自分の臆病さ加減にほとほと嫌気がさす。どこかで不安になっていただけだ。自分の個人的な感情――銀時への恋情ゆえに組織を危険に陥れているのではないかと危惧し、そうではないと安心したいがために近藤の是認が欲しかっただけだと、自嘲するしかなかった。
腹を括ったのは大分前のことだというのに――今さらだ。
銀時の過去を知りながらも目を瞑り、その上で、近藤も真選組も護る――そう決めたはずだ。
軽く息を落とし、土方は顔をあげた。浮かんでいた自嘲は苦い笑みに変わっている。
「狸ジジイども相手に小芝居打つのも結構疲れるんだぜ」
おまけに肝心の本人が、今では過去を隠していない、というのだから、気苦労が増すばかりだ。
すまんなァ、と笑った近藤が、次いで「それでな、トシ」とわずかに顔をくもらせる。
「その坂田なんだが、さっき吉村から連絡があってなァ」
「あ? なにかやらかしたのか、あのバカ」
銀時の病室についている監察からの報告で近藤がこんな表情をしていれば、良い知らせのはずがない。土方が眉根が寄せると、近藤はハハ、と力なく笑った。
「病院から抜け出したそうだ」
あンのバカ――近藤の言葉に思わず拳を握り締めた。どこに向かったかなど容易に知れる。
「でなァ、トシ。休みなのに悪ィんだが――」
言いよどんだ近藤が何を告げようとしているのか正確に読み取り、土方はああ、とうなずいた。すなわち、仕事を休めということと、あのバカを見つけて来いということだ。
「――とッ捕まえてもっぺん病院送りにしてくらァ」
「すまんなァ、トシ」
近藤にしてみれば、銀時を探すという名目でも、土方を休ませたかったのだろう。それがわかるだけに土方は気にするなと笑ってみせた。
上着を引っ掴み、屯所を出る。
その足は真っ直ぐにかぶき町へと向かった。