其ノ陸「反転」 01



近藤――と静かな声が聞こえ、意識がふうと浮上した。

大きくもないその声を聞きとれたのが不思議なくらい、頭の中は未だ朦朧としている。体に至っては、まるで金縛りにでもあっているかのように、指一本動かせない。

自分の中のどこもかしこもが、おぼろで曖昧だった。

なのに、ざわざわと胸中がざわめいて、落ち着かない気持ちになる。

とても、嫌な予感がした。

起きて男のその口を塞いでしまいたい。そう思うほど、聞きたくない――否、言わせたくなかった。

動かない体がもどかしくて焦燥を募らせていると、その静かな声が再び落とされた。

「この先、――になったら、俺を――」

穏やかに告げられたその言葉に、土方は嫌だ、と強く思った。


* * *


神楽は空気や気配というものに敏い。

それは恐らく、戦闘部族である夜兎としての本能なのだろう。戦場で場の空気を読み、自分以外のものの気配を察し、敵を屠るために――生き残るために自然と研ぎ澄まされた能力だ。

だから神楽は、真選組において誰よりも空気や気配に鋭かった。
もっとも、鋭いからといってそれらを読んだ上での行動を取るかといえば、また別の話だが。

その神楽の鋭敏な感覚が、屯所内に充満している空気を正確に読み取る。

それは、困惑と不安――総じて、ザワザワとした動揺だ。
誰もが普段どおりの顔をしながら、そんな感情を押し殺している。

その理由には心当たりがありすぎた。否、間違いなく全員わかっている。
だからこそ、普段どおりにしようと努める様がむしろ馬鹿馬鹿しい、と神楽は呆れるしかない。

屯所内が押し殺した動揺に包まれている理由――それは、副長である銀時が、突然姿を消したからだ。

姿を消した、と言っても何か事件に巻き込まれて――などということではない。
銀時は自分の意思で真選組を出て行った――らしい。

そのことを神楽たちに知らせたのは、もうひとりの副長である土方だった。



一週間ほど前、隊士たちを大広間に集めた土方は、まだ他言するな、と箝口令を敷き、銀時の脱隊を告げた。

「まだ上に知られる訳にはいかねェから、京都に出張してることになってる。くれぐれも口外すんじゃねェぞ」

後から聞いた話によると、その京都出張は銀時の身代わりをたてて、本当に行われたらしい。

座敷内にざわ、と低く動揺が漂った。

上に知られる訳にはいかないとは、どういう意味なのか――そんな疑問を口にする者もいたが、「内部のゴタゴタを知られたら、上になに言われるかわかんないんだよ」などと、知ったように話す声がした。それは、よく土方の傍らに居る地味な監察のものだった。

「坂田には特例として、局長の許可による脱隊が認められているが、今回の件はそれに当て嵌まらねェ。だから――片をつける。上に知られる前にな」

土方は淡々と口にすると、隊士たちを見回した。その顔には、怒りも何も浮かんでいない。ひやりと寒気がするほどの無表情だった。神楽はその土方の姿に、妙に落ち着いてるな、と不思議に思ったのを覚えている。

片をつける――などという言葉が出たからだろう、座敷は一瞬水を打ったかのように静まり返った。

「…どーいう意味ですか」

恐る恐るといった風に訊ねる声があがる。それは、その場に居た誰もが抱いた疑問だった。

土方はその声の方をちらりと一瞥しただけで、やはり表情ひとつ変えずに口を開いた。

「見かけた奴は俺に報告しろ」
「土方さん、アンタまさか…」

沖田が珍しく戸惑ったような硬い声を出した。
誰もが言葉を挟めずにいるなか、

「――俺が始末をつける」

土方の低い声が座敷に落とされた。

それは、自分が銀時を斬る、ということだ。

そう隊士たちに告げた土方は、とても冷酷な空気をまとっていた。誰もが――沖田ですら言葉を失ったほどの気配に、その場の空気までもが凍りついたかのようだった。

けれど神楽はその気配に、それでか、と妙な納得をしていた。

先ほど土方の姿に「落ち着いている」と感じたのは、彼が疾うに心を決めていたからなのだ。銀時を斬る――と、決めている。

けれど、土方の気配には納得したものの、土方の言葉には首をかしげるしかなかった。それは神楽にとってとても非現実的なものだ。言葉どおりの光景を想像してみても、あり得ないとしか思えない。

それほどに作り事めいていて、そして――何かが神楽の中で引っかかっていた。



神楽が数日前の出来事を思い起こしながら廊下を歩いていると、

「神楽隊長…」

背後から弱々しい声で呼ばれた。

振り返ると、幾人かの隊士たちが所在なさげに立っている。そこには神楽隊ではない隊士の姿もあった。
皆一様に暗い顔をして、縋るような目を神楽に向けている。

その鬱陶しい光景に、神楽は顔をしかめた。

「なんだヨ」
「坂田副長は、ホントに真選組を抜けたんですか…?」

その場の者たちを代表するかのように、神楽隊の隊士が沈痛な声で訊ねる。

その隊士は、神楽が真選組に入るわずか前に入隊した者だった。だから、神楽が銀時に連れられて来た――正確には神楽が無理矢理ついて来たのだが――経緯を知っている。神楽がただ、銀時と一緒にいるために真選組に入ったのだということも。

否、その経緯を知らない者でも、神楽が銀時にどれほど懐いていたかは、承知しているだろう。神楽自身、銀時に対して家族の情に近い感情を抱いていたし、親密な間柄だったと思っている。

だからこそ、彼らは神楽に訊ねてきたのだろう。神楽なら、何かを知っている――銀時から聞かされているだろうと考えたのだ。

その考えはわかる。わかるのだが――自分に集中している救いを求めるような視線に、神楽はため息をこぼすしかない。

そんな訳はない、とか、何か理由があるはずだ、とか、そういう言葉を求められていることは、瞬時に理解した。理解したものの、神楽にはそれを口にしてやる気など微塵もないのだ。

「…あのマダオのことだから、真面目に働いてるのが嫌になったんじゃないアルか?」

適当にそんなことを嘯けば、隊士たちは皆、肩を落として悄然とした。

そんな姿を呆れて見やりながらも、神楽は好ましくも思った。

銀時が姿を消す直前、彼と土方が酷く言い争っていた――などという話がある。

いつもの言い合いなどとは比べ物にならないほど物騒な空気で、激しく口論していたらしい。

そして最終的に銀時は「やってられっか馬鹿馬鹿しい」などと言い捨てて、出て行ったのだという。

普段からしょっちゅう喧嘩めいた遣り取りをしていたふたりだ。それだけに、その話を聞いて、いよいよ確執が決定的なものになり、土方と相容れなくなった銀時は離反したのだ、などと納得する隊士もいた。

だが、こうして神楽に真偽をただしに来た者たちは、得心できないのだろう。皆、銀時が土方と衝突して真選組を抜けた――など、信じたくないのだ。

その気持ちは神楽にもわかる。だが、わかるからといって神楽に言えることなどなかった。

神楽とて銀時からも土方からも、何も聞かされていないし、知らされていないのだ。

そこに思考が至ると少しばかり面白くない気持ちになり、神楽はプイとそっぽを向いた。

「そんなに気になるなら、さっさと銀ちゃん見つけてこいヨ」

そう言い放ち、神楽は踵を返して再び歩き始めた。

背中に、でも、とか、そうしたら土方副長に、などと悲愴じみた声が投げかけられたが、知るかとばかりに無視をする。

正直、鬱陶しい。
こうして銀時のことを訊ねられるのも、無言で探るような縋るような目を向けられるのも、屯所内の空気そのものも、鬱陶しくて仕方がない。

だから非番である今日、早々に屯所を出ようと目論んでいたのだが、しっかり捕まってしまった。それもまた面白くなくて、足取りが乱暴になる。

神楽が足音も荒く玄関へと向かっていると、

「――出かけんのか」

再び背後から声をかけられた。

またか――とは思わなかった。
苛立ちも沸かない。

素直に足を止めて振り仰ぐと、制服姿の土方が静かな双眸で神楽を見下ろしていた。

「…ココにいてもつまんねーからな。皆暗い顔してうっとーしいアル」

本音をこぼせば、土方はそうか、とつぶやき、ふっと目を伏せた。
神楽はその顔をただじっと見つめる。

凝視した先の顔は、常以上に感情が読み取りにくい。
まるでお面――能面でしょ、と新八からツッコミが入りそうだ――のようだと思った。

銀時が真選組を出て行ってから、土方はいつもこんな表情をしていた。
否、銀時や沖田や神楽がからかったりすれば、その顔を思い切り崩していた――地味な監察こと山崎がヘマしたときもそうだ――から、そんな土方が当たり前だと思っていたが、本来の土方はこんな風にあまり感情を面に出さない方なのかもしれない。

銀時が出て行ったことを告げたあの日以来、誰もが土方を遠巻きにしている感がある。あの沖田ですら、土方に難癖つけて絡んだり、といったことをしていないのだ。

だからずっとこんな顔をしているのだろうか――神楽がそんなことを考えていると、土方は「外で遊ぶのは構わねェが」と伏せていた視線を神楽に移した。

「おめーも気ィつけろよ」

一応な、と続けた土方がなんのことを言っているのか、瞬き二回ほどで思い出した。

今、市中では若い――神楽くらいの年齢の少女が行方不明になる事件が多発しているのだという。
テロに関係しているとは思えないので真選組が表立って捜査することはないが、市中見廻りなどの際には目を配るよう、上から通達を受けていた。

だから土方は私服姿の神楽に声をかけてきたのか、と納得し、同時にその事件がまだ解決していないことを知る。

少女かどわかし事件の捜査は、町奉行配下の廻り方同心が行っていると聞いた――気がする。

「まだ捕まえてねーのかヨ」

使えねーアルな、と呆れる神楽に、土方はそう言ってやるな、と小さく苦笑した。

その、久し振りに見た表情に、疲れてるな、と感じる。

銀時を斬る、と心に決めたとしても、否、決めたからこそ、やはり心苦しいのだろうか――そう考えると、神楽は遣る瀬無いようなもどかしさから苛立って仕方なかった。

銀時と土方はずっと反目しあっていた、などと訳知り顔で放言している隊士もいたが、むしろ逆だということを神楽は知っている。

逆――すなわち、できていた。
銀時とこの男は恋仲だったのだ。

銀時からも土方からもはっきりと聞いたことはないし、問いただしたこともないが、神楽はそれを知っていた。わかっていた、と言う方が近いのかもしれない。

もっとも、ふたりの仲が知られていなくても仕方ないだろう、とも思う。

反目しあっていた、などと言われるほど、ふたりのあいだで喧嘩は絶えなかったし、「死ね」と土方が抜刀することだってあった。ときおり銀時が色を滲ませた「その手のこと」を口にしたりしても、土方をからかって遊んでいるようにしか見えないだろう。

ふたりのことに気づいているのは、神楽を含めても片手で足りるはずだ。そのなかには沖田も入っている。だからこそ、あのサド男は土方の決定に眉をひそめていたのだ。

そんな相手を斬るというのは、どれほどの苦しみなのだろう。

想像し――結局神楽には何ひとつわからなかった。そもそも恋だとかいう感情すら、神楽にはわからないのだ。

それでも――と、神楽は思う。

それでも、土方にこんな顔をさせるのは嫌だった。

「…銀ちゃん見つけたら、教えてやるヨ」

そんな思いから神楽がそう言うと、土方は苦笑を深くした。まるで困っているかのようでもある。

土方は何かを隠している――土方の表情に神楽は直感した。何かが引っかかる、と最初から感じていたが、その感覚はやはり正しかったのだろう。
何が――まではまだわからなかったが。

神楽が眉をひそめて疑いの目を向けると、土方は首をかしげてみせた。

「酢昆布何箱だ?」
「いらないアル。その代わり――」

隠していることを全部話せ――そう言いたかったが、疲れたように笑う土方を見ていたら、それを口にするのはためらわれた。

「…銀ちゃんとお前、一発ずつ殴らせろヨ」

だから、神楽は代わりのようにそんなことを言った。
何故そんな言葉になったのかは、自分でもわからない。

ちったァ加減しろよ――土方は小さく笑った。

(12/09/15)



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