気がついたらザアザアと降りしきる雨のなか、薄汚いゴミにまみれて路傍に転がっていた。
じくじくと脈打つ痛みに怪我をしていることを知る。血が流れすぎたのか、体中が酷くだるくて腕一本動かせそうにない。
何故こんな所でこんなことになっているのか――茫とした頭にはその理由など浮かばなかった。雨に打たれ、体温が奪われていく感覚すら他人事のように遠く感じる。
このまま死ぬのか――それすらもどうでもよくて再び目を閉じたとき、
「お前、死にたいアルか?」
不意に上から冷ややかな声が降ってきた。
ゆるりと目を開け見やった先には、少女と女の狭間にいる美しい生き物がいた。色素の薄い硝子のような瞳がじっと見下ろしている。
まるで人形の目だな、とぼんやり思いながらそれを見あげ、男は――薄っすらと笑った。
仕事を終えた金時が逸る心を抑えながら自宅マンションに辿り着いたのは、日付をすぎてからさらに一時間が経とうとしていた時分だった。店からは車で数十分。タクシーを降りながら、今ではこのわずかな移動時間すら惜しく思う。
いわゆる高級マンションの部類に入るだろうこの建物は、金時が勤めている店から少しばかり離れていた。この物件を選んだのも購入したのも金時ではない。最終的には部屋のランクやセキュリティ面などで選んだと思われるが、はっきり言って趣味でもなければ自分には豪勢すぎると金時は未だに思う。ましてや、勤務時間以外は部屋に篭っていたい、などと切願している今では、もっと近場に引っ越したいとすら思っていた。否、半ば本気で考えている。だが、そうするとこのマンションに決め、金時に買い与えた少女がどんな反応を示すか――それが容易に想像ついて、決断を鈍らせるのだ。
歓楽街から離れた静かなところ――そう立地条件に口を挟んだのは金時だろう、とにやにや笑いながら嫌味を言うのはまず間違いない。因みにこのマンションはその条件に合致している。だから金時に文句は言えないのだが。
エレベーターが部屋のあるフロアに到着する数十秒すらじれったく感じ、扉が開くなりフロア奥の部屋へと小走りに駆ける。
「ただいまー」
ドアを開けたと同時に口をついて出た声は、以前ならただがらんとした部屋に響いただけだった。だが、今は違う。
「おかえり」
と、そう返ってくる声がある。
慣れたようで未だ不慣れなそれが、こそばゆくも嬉しくて、金時の胸はほわりと温かくなった。
そんな面映いぬくもりを噛み締めながら廊下にあがると、同じタイミングでリビングから出てきた男が金時の姿を認めて小首をかしげた。
「今日も早いな」
そう言い、リビングを振り返ったのは時計を確認するためだろう。まだ閉店してから一時間ほどだ。彼が毎度のように不思議がる気持ちもわかり、金時は内心苦笑する。
「アフターなかったからね、今日」
ふわりと微笑み、ただいま、と再び口にして男を抱きしめる。なかった、ではなく最近はアフターを受けないだけなのだが、彼は大して気にとめもせず、そうか、とうなずいた。
「お疲れさん」
労うように、背中を撫でてくれる。それだけで疲れなど綺麗に掻き消えるようだ。
「こうしてると疲れたのもふっ飛ぶわー」
和らいだ気持ちでほう、と息を落とすと、腕の中で男が身じろぎした。
「金時、酒臭い。あと香水臭い」
咎めるでもなく事実を羅列すると、男は「風呂入って来い」といつもどおりに金時を促す。それに対して金時が「えー」と返すのも、既にお約束の域だ。
「もーちょい土方充すんのが先ー」
「風呂あがってからでもいいだろう」
「やだ。土方が一緒に風呂入ってくれる、ってんじゃなきゃ、やだ」
「俺もう入った」
「うん、ボディソープとシャンプーのいい匂いする〜」
「お前は酒と香水で臭い」
「酷ッ!」
「だから早く風呂入ればいいのに」
呆れたようにそう言いながらも、男――土方は金時を突き放すでもなく、好きにさせている。それが土方の金時に対する好意の表れ、という訳ではないとわかってはいても、それでも嬉しかった。腕の中の存在に心が満たされ、そこから溢れたあたたかいものが恋慕となって日に日に募っていく。それを改めて実感するたび、金時は不思議なものだと他人事のように思う。
土方と暮らし始めてから、まだひと月ほどしか経っていない。当初は身元の知れないこの男をどう扱っていいのか、とか、そもそも見知らぬ他人と暮らすこと自体が嫌で堪らなかったというのに、今ではすっかり馴染んでしまっているのだ。土方が居なかった頃の暮らしになど、戻りたいとも思わない。
彼と初めて引き合わされた日のことを思い出し、そう昔のことでもないというのに金時は妙な懐かしさを覚えた。
歓楽街として名高い新宿歌舞伎町――ホストクラブ「クラブ万事屋」はその一角にある。数あるホストクラブのなかでも人気、知名度ともにトップクラスの店だ。
金時はその「クラブ万事屋」でホストとして働いている。それも、押しも押されもしないナンバーワンホストだ。したがって金時を歌舞伎町ナンバーワン、などと賞賛する声も、羨望の視線を向ける者も少なくない。
その日も次から次へと指名を受け、幾つものテーブルを泳ぐように渡り歩いていた。
そんな金時が店長――名義上の代表であるケツアゴこと志村新八から呼ばれたのは、店内が一番の賑わいを見せている頃合だった。
金さん――と抑えられた音量で名を呼ばれ、そちらに目を向けると柱の陰から新八が手招きしている。
「金さん、神楽ちゃんが奥の部屋にいるから今すぐ来るように、と」
何事かと傍に寄れば、事実上のオーナーの名前を出され伝えられたのがそんなことで、金時は「は?」と目を丸くした。
「神楽が来たの? ってか、え、奥にいんの? アイツが?」
「いきなり連絡があって、裏口から来たんですよ。珍しいことに」
何故、と驚く金時に、新八もわからない、とばかりに眉をひそめた。
クラブ万事屋には訳ありの客専用の、店内を通ることなく入れる部屋がある。VIPルームもに引けを取らないほど豪奢な一室だ。
確かにオーナーである神楽は、その部屋を自由に使用できる立場にある。けれど、彼女は店が盛況している様子を見るのが好きなため、常なら普通に表の入り口から入ってくるのだ。
その神楽が裏口から入ってくるなんて珍しい――と金時が内心首をかしげていると、それと、と新八の声が低く落とされた。
「なんだか妙な連れがいました」
「なに、ソレ」
「わかりませんよ。頭からすっぽり布被せてましたから、全身に。背が高かったから男の人だとは思うんですが」
「は? 布? 頭からすっぽり? なにソレ、新手の犬神家!? スケキヨ!!」
「だからわかりませんしスケキヨは頭だけでしょ、布」
いいからさっさと行ってください、と新八に背中を押され、困惑しながらも金時は奥の部屋へと向かった。
フロア中央――通常の入口から入って真正面に備えられている階段。普通の客なら足を踏み入れるのもためらうだろうその階段を、フロア上の視線を集めながら登る。奥の部屋――または隠しダンジョン――などと呼んではいるが、その部屋はオペラ座のボックス席のようだと金時は思う。もっとも、比喩した光景も写真などから抱いたイメージでしかないが。
階段を登りきり、広い通路をわずかに進む。通路と「奥の部屋」とを目隠しのように隔てているカーテンをめくり金時が中に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。
真っ先に目に入ったのは、革張りのソファに悠然と腰掛けている年若い少女――クラブ万事屋の本当のオーナーである神楽の姿だ。鮮やかなチャイナドレスに身を包んだ少女のその傍らには、黒いスーツとサングラス姿の男がふたりほど控えている。神楽の部下であり、護衛の男たちだ。
それも充分風変わりな光景だろうが、そこまでは見慣れたものだった。VIPルームでだったり、階下のフロアでだったり、神楽がこの店で遊ぶときによく目にする光景だ。だからこそ、見慣れない物体――神楽の横に置かれた黒い布の塊が、金時にはとても異質に感じられた。物凄く異様なその存在が、不気味な雰囲気を生み出しているかのようだ。
新八が「妙な連れ」と称したのももっともだな、などと変な納得をしながら、金時は少女の方へと足を運んだ。
「よォ、神楽。久し振りだな」
「金ちゃん」
神楽が金時を振り仰ぎ、嬉しそうに顔を輝かせる。布の塊には触れずに反対側へと腰をおろし、それにしても、と金時は久し振りに対面した少女の姿に目を細めた。
「いつコッチに来てたんだよ」
「日本に着いたのは五日前ネ。ホントはもっと早く来たかったけど、ちょっとヤボ用ができてしまったアルヨ」
「ヤボ用?」
金時が訊ねると神楽は目線で黒スーツの男を促した。うなずいた男が神楽の横に置かれていた物体から布を取りさる。途端、ただの黒い布の塊だったそれが、ひとりの男へと姿を変えた。
神楽越しにそれを眺めた金時は瞠目し――茫然と見入ってしまった。
現れたのは、羨ましいまでに真っ直ぐな黒髪の男だった。額に包帯が巻かれ、頬にも治りかけの擦り傷が幾つかあるところを見るに、神楽のところと何かしらのいざこざがあったのだろうか。年の頃は金時と大差ないだろう。眠いのかその表情は茫としているが、顔立ちそのものは整っている――金時が思わず見惚れてしまったほどに。
金時が現れた男を惚けたように見つめていると、
「――五日前拾ったアル」
神楽が事も無げに言い放った。
金時は神楽と男とに視線を走らせながら少女の言葉を脳裏で反芻した。どこか動きの鈍い頭でなんとか現状を把握する。
「いや、お前……拾った、って、おま……」
「金ちゃんにこのコあげるアルヨ」
「……はァァァアア!?」
神楽のあまりにも唐突な申し出に、思わず金時は頓狂な叫びをあげてしまった。丁度飲み物の乗ったトレイを手に現れた新八が「ちょっと!」と慌てたように金時を咎める。
「金さん、下のフロアまで聞こえますよ! どうしたんですか、いったい」
「いや、だって新八お前、神楽が急に変なこと言い出すから――」
「変なことじゃないアルヨ。金ちゃんにプレゼント持って来ただけネ」
「イヤイヤイヤ、自分がなに言ったか、もっぺんよーく考えてごらん神楽ちゃん? おかしいだろ? 金さんビックリなのもうなずけるおかしさだろ?」
金時が諭すように問うても、当の少女は平然としたままだ。むしろ事情をよくわかっていないだろう新八の方が、「え? プレゼント?」と困惑したように、布の固まりだった男をちらりと窺っている。
「つーか、おめーもなんとか言えよ。いいのかよ、おめー自身のことだろうが」
神楽越し、彼女に「プレゼント」扱いされた男へと声をかけるが、反応はなかった。金時が眉をひそめると、神楽が自分の隣に座る男を覗き込んでにっこりと笑う。
「トシちゃんはそれでいいアルよな?」
「おめーに訊いてねェっての!」
金時がツッコミを入れても、男は神楽の言葉にただうなずくだけだった。その茫洋とした様子に、なんだか薄気味の悪さを覚える。
「……オイオイ、なんなのコイツ、クスリとかやってないよね」
「夜兎はクスリに手ェ出さないアル。失礼なこと言ってんじゃねーぞテメー」
顔を引きつらせた金時をじとりと睨めつけ、神楽はフン、と鼻を鳴らした。
「普通のお薬ネ、トシちゃんに打ってるのは」
「オイぃぃぃ!」
「金ちゃんうるさいアル」
金時の雄叫びに神楽が顔をしかめる。
「風邪薬アルヨ。トシちゃん、風邪っぴきネ」
「風邪っぴきを人に押しつけんなよ」
「トシちゃんのせーかつひは私が出すアル。人前にさえ出さなければ、あとは金ちゃんの好きにしていいネ」
「いや、だからその前に人の話聞けっての」
「新八、金ちゃん今日はコレであがりヨ。金ちゃんはトシちゃん連れて早いトコ帰るヨロシ」
金時の抗議を一切無視し、神楽は告げるだけ告げると席を立った。話は終わりだとばかりに、壁側に口を開けた通路――その先に外へ通じる扉がある――へと、護衛たちを連れて姿を消してしまう。
傍若無人な少女が嵐のように過ぎ去ると、残された男三人は奇妙な沈黙に包まれた。なんだか妙に息が詰まる。
そんな空気のなか、えーと、と口を開いたのは新八だった。
「トシ、さん? あの、さっきの女の子が言ったことなら気にしなくていいですよ。トシさんにだって都合とか仕事とかあるでしょうし……」
「……ない」
新八が気遣わしげに声をかけると、男は初めて口を開いた。だが、ようやく落とされたその声が、金時と新八に首をかしげさせる。
「ないって、どーいうこと?」
「そのままだ。俺にはなにもない」
訝しく眉根を寄せる金時を見やり、男は虚ろな表情のままなんの感情もこめられていない声で続ける。
「神楽はアンタにやると言った。いらないなら捨ててくれればいい。アンタが気にする必要はない」
アンタが決めればいい――そう淡々と口にした男に記憶がないと知ったのは、それから数時間後のことになる。