「テメーら、領収書溜め込むなっつってんだろーが! 経費出さねェって脅されたぞバカヤロー! さっさと計算して経理に回せ!」
警視庁本庁庁舎の一角、警備部警備第一課特殊機動隊――通称・真選組の部屋に、土方の怒声が響き渡る。副長の雷に室内の隊員たちは首を竦ませたが、ただひとり、沖田だけがだらりと椅子にもたれながら土方に飄々とした顔を向けてよこした。
「あいにく俺たちゃ誰かさんの穴ァ埋めなきゃなんねーんで、そんなヒマねーんでさァ。アンタどーせヒマだろィ、代わりにやっといてくだせェよ」
「ヒマじゃねーよ! おめーらが書類溜め込んでやがるからヒマじゃねーよ!」
バンバンと土方が怒りに任せて自分のデスクを叩けば、山積みになった書類が崩れそうになる。傍らでハラハラとした面持ちで見ていた山崎が、慌てたようにその山を両手で押さえた。
「副長、あまり興奮しない方がいいですよ。アンタ退院してからまだ一週間経ってないんですよ?」
「あァ? だったらおめーらがきっちり仕事しろっつーの」
誰のせいだ誰の! と土方は喚いたものの、山崎や隊員たちから心配そうな目を向けられては土方に分が悪く、結局チ、と舌打ちひとつで苛立ちを散じる羽目になる。
山崎が言うように、つい先週の末まで土方は入院していた。そして先日からようやく職場復帰することができたのだ。
正直、土方には入院していたという実感はあまりない。だが、体力的な衰えは否めず、そのことに不安感に似た焦りを覚えていたら、当分は無理するな、とデスクワークを押しつけられてしまい、さらに焦燥が芽生えた。
要するに鬱憤が溜まっているのだ。はっきり言って、苦痛だ。現場に出て捜査を進めたい件だってあるというのに、動くな、と言われているのだ。それで苛立ちが募り、さらに鬱屈が溜まる――という悪循環だった。
苛立ちを紛らわすために煙草を咥えれば、それもまた山崎の心配を煽るようで、「少し控えてくださいよ」などと気遣わしげに言われる。土方の体を思ってのことだとわかるのだが、それもまた鬱陶しい。
土方がそんな憤りを押し殺していると、警察庁へと出向いていた上司――近藤が室内に現れた。
「あれ? トシ、今日は病院行く日だろ」
土方の顔を見るなり、なんでまだいるの? とばかりに首をかしげる。その言葉と視線に、土方はそうだった、と思い出し、げんなりとした。
「……メンド臭ェなァ……」
「診察受けたら、今日はそのまま直帰していいぞ」
渋々デスクを片付け始めた土方に、近藤が暢気な声をかける。は? と土方は思わず瞠目してしまった。
「できるワケねーだろ、こんな山積み残して」
土方が書類の山を指し示してみせれば、近藤は呆れたようにため息をこぼした。
「やーみーあーがーりー。トシはもう少し自分の体調を自覚しなさいって」
「病み上がりはお互い様だろ。アンタこそ、傷、大丈夫なのかよ」
「俺はとっくに治ってますー。トシと違ってちゃーんと安静にしてたから治ってますー」
ほーらね、と近藤が撃たれた右肩をぐるんぐるんと回してみせる。そこには確かに怪我の影響は見えない。その様に、あの事件から既に半年近く経っているのだと改めて思わされ、土方は――不可解さに眉をひそめた。
何故なら半年、という記憶も時間の感覚も、土方にはないのだ。
その日の――取り引きがあった日の記憶自体が酷く曖昧だが、土方にはあれから半年近く経っているのだと聞かされても、何の冗談だとしか思えなかった。
頭を殴られたのは覚えている。その後、何やらクスリを打たれたのも。そこで土方の記憶は途絶えているのだが、それからずっと土方は昏睡状態にあったというのだ。
意識を失い、目が覚めたらそれだけの時間が経っていると言われても、土方にはそんな実感などない。軽く浦島太郎状態で困惑するばかりだ。
そんな半ば混乱状態の土方に、あの日のことを報告したのは沖田だった。
捜査の情報が漏れていて土方たちは嵌められたこと、警察内部に内通者がいたこと。それが、土方たちの部隊の者だったこと――。
――篠原が……?
信じられなくて目を見張る土方に、沖田はアンタならその後ろに誰がいやがるかわかるだろ、と忌々しげに言ったのだ。だから精々気をつけろ、とも。
ずっとデスクワークばかりやらされているのは、そんな理由からもあるのだろう。
そうわかっても、置いてけぼりにされたような現状を改めて実感するだけで、やはり面白くない。
土方が不機嫌もあらわに、椅子にかけていたジャケットを羽織ると、そういえば、と近藤の楽しげな声がかけられた。
「トシ、誰だかわかったのか?」
「――なんの話だよ」
「なにって、例の「二輪の薔薇の人」だよ」
眉をひそめる土方に、近藤はあっけらかんと返す。途端、沖田がにやにやと笑いだしたのが視界の隅に入り、土方は盛大に顔をしかめた。
二輪の薔薇の人――と近藤が呼ぶのは、どうやら紫のあの人、という呼び方にちなんでいるらしいが、別段土方を陰ながら応援している人、というものではない。薔薇を二輪、毎日土方へと贈ってくる者がいるのだ――実際に。
どうやらそれは、土方が入院し昏睡状態にあったときから、毎日贈られていたらしい。土方の意識が戻るまでに多数の花が枯れてしまったようだが、それでも、目を覚ましたとき病室の中が色とりどりで目が回るかと思ったくらいの量が飾られていた。
贈られるのは、一輪ずづラッピングされた薔薇の花が、必ずふたつ。色はそのときどきで違ったが、深い紅が多かったように思う。そして、リボンの色は朱色と金色――それは変わらなかった。
退院するまでは病院に、以降は沖田や山崎づてにと、土方宛に毎日それが贈られてくるのだ。
「わかるワケねーだろ。つーか知ってんのはコイツらだろーが、そっちに訊いてくれよ」
「だってー、総悟もザキも、トシがわかるまで内緒、って教えてくんねーんだもん」
拗ねたように口を尖らせる近藤の言葉に、土方は忌々しさを隠すことなく沖田と山崎を睨んだ。だが、沖田は飄々と、山崎はビクリと身を竦ませながらも、その正体について口を割ろうとしない。
「だから、べつにアンタの知らねェ奴じゃねーって言ってんでしょうが」
「あの、でもべつに無理して思い出すこと、ないですからね。っていうか、無理せんでくださいね」
そんな意味ありげなことを言いながら、ふたりともはっきりとしたことは言わずに濁すだけだった。そして、そのたびに土方は胸がざわついて、どうしようもない気持ちにさせられるのだ。
思い出そうとすると、いつもそうだった。何か――大事な何かを忘れているようで心が波打ち、思い出せないことに、何故だか哀しくなった。
病院に着いたのは昼時だったが、検査を終えた頃には既に夕方近くなっていた。直帰しなさい、と近藤から散々言い含められたのだが、この分では戻ったところで終業時間だと追い出されていただろう、と土方は苦笑した。
とにかく早く煙草が吸いたい、と全面禁煙の敷地から出ようと足を進め、道路へと向かっていたとき、
「そこのおにーさん」
不意に後ろから声をかけられた。
振り返った土方の目の前に、す、と深い紅と青みがかった白が差し出される。何、と見れば、それは綺麗にラッピングされた一輪の薔薇ふたつだった。
――コイツか
バッと顔を上げると、そこにいたのは見事なまでに鮮やかな金髪の男だった。沖田たちのセリフに反して、土方に見覚えはない。ないのだが、この男が近藤たちのいう「二輪の薔薇の人」なのだろう。
だが、なぜこの男が毎日毎日薔薇を二輪――それも土方になど、贈り続けているというのか。
訝しく思いながら睨むように見つめると、金髪の男がふわりと微笑んだ。その綺麗な笑みになんだか胸が締めつけられるように痛くなり、土方は眉根を寄せた。思い出せない、その哀しさが込みあげてくるのに、やはりわからないのだ。何を忘れたのかも、この男が誰なのかも。
そんな苦しさを押し殺していると、男は優雅な動作で二輪の薔薇を土方に握らせた。リボンはやはり、朱色と金色。金色はこの男の髪の色からきているのだろうか――そんなことを考えていたら、
「ずっと前から惚れてます、俺と付き合ってください」
男の甘やかな声が鼓膜を揺らし――土方のなかの何かを揺らした。
――好きだよ
脳裏に声が蘇る。瞠目し、思わず男を見つめた。
目の前の男の、鮮やかな金髪が夕陽を弾き、眩しくて目を眇める。その光がちかちかと脳内で瞬いているようだった。
パルスのように瞬き、ハレーションを起こしているそれが――
――忘れていいよ
バチリと強く弾けた。それを引き金に――記憶が溢れる。
――俺が覚えてるから
――もっぺんお前と一緒にいられるように
――口説いて口説いて口説き倒すから――
やわらかい笑み、泣きそうな顔――あたたかい腕のやさしさ。
洪水のように溢れ出て蘇ったのは、どこまでも――どこまでも穏やかで、泣きたくなるほど幸せな記憶だった。なんで忘れていられたのかが不思議なほどに、鮮烈で――けれどやわらかな記憶だ。
突然の記憶の再生に、ふっと一瞬意識が飛んだらしい。ぐらりと傾いだ体が、倒れる前に支えられる。慌てたように土方の体を抱きこんだ男の腕は、細身に見える外見からは想像がつかないほど、存外力強かった。
知っている――土方は知っている、というそのことに、なんだか泣きたくなる。その腕のなかがどれほどあたたかかったのかも、土方は知っているのだ。
記憶と共に呼び起こされた感情は、とてもあたたかく甘やかで、どれだけ自分が幸せな時間の中にいたのかを教えているようだった。
ふう、と目を向ければ、男は心配そうに土方を覗き込んでいる。そんな表情をよくさせてしまっていたことも、思い出した。そして、そんな表情をさせたくはなかった、ということも。
「……金時……」
土方がその名を呼ぶと、金髪の男――金時は目を瞠った。
「……覚えてんの? 俺のこと……」
「ああ」
思い出した――そううなずくと、驚いたように固まっていた顔がくしゃりと歪んだ。今にも泣き出しそうな、そんな顔で金時が笑う。
「どうしよ、すごい今このまんま抱きしめてちゅーしたい」
「人目があるから駄目だ」
土方がにべもなく拒絶しても、金時は泣き笑いのような顔で首をかしげる。
「理由、それだけ?」
「……それ以外になにがあんだよ」
というより、その理由が一番問題だろうが、と土方が眉根を寄せると、金時の顔が一層歪んだ。
「わー……どうしよ、俺、すげー嬉しい……やべ、泣きそう」
――思い出しても、俺の傍にいて?
震える声が、記憶と重なる。
泣きそう、と自分で言うように、その瞳には確かにじわりと涙が滲んでいた。
あのときも、こんな顔で泣いたのだ、この男は――その姿を思い出し、再び土方の胸が締めつけられる。見ている土方の方まで泣きそうになるような、それでいてただ抱きしめてしまいたくなるような、そんな衝動に駆られ、土方はああ、とようやく自分の感情を理解した。
がらんどうになっていた心の内は、いつのまにか埋められて、満杯になっていたのだ。
そこから何が溢れるのか知るのが怖い、などと思っていたのを思い出し、土方は気づけなかった自分自身に呆れるしかない。
既に溢れていたのだ、あのときも。ただ気づけなかっただけで、今胸の中を満たしている感情が、既に溢れていた。
「好き。土方、好きだよ」
好きだ、とかつて何度も告げられたことを、金時が繰り返す。それしか言葉を知らないかのように、何度も何度も。それだけで、土方の胸が震える。ああ、と答えた声も震えていた。
「……俺もだよ」
あのときは気づけなくて、返すことができなかった。その答えをやっと言葉にしたら、大きく見開かれた金時の瞳から、涙の粒がぽろぽろとこぼれ落ちた。
綺麗な顔を涙が伝い、濡らしていく。それを拭うことなく呆けたように土方を見つめていた金時が――微笑んだ。涙が流れるまま、心底幸せそうに微笑むその姿に、やはり、と土方は確信する。
疾うに溢れていたのだ。
この、綺麗で優しくて、どこまでも土方に甘い男への想いとして――溢れていた。