ねえってば、と咎めるような声でハッと我に返った。
知らず茫っとしていたらしい。金時を指名した女性が「どうしたの?」と眉をひそめて金時を覗き込んでくる。
「なにか心配事? ……それとも私と居てもつまらない?」
拗ねるように紅い唇を尖らせるが、その目は不安そうにも見えて金時はごめん、と素直に謝った。ふと気づけば、近くのテーブルから他のキャストたちも同じように心配そうな目をちらちらと――さり気なくではあるが――向けていて、金時は自分の迂闊さに内心ほぞを噛んだ。
新八からも散々「営業中は個人的な感情も事情も捨てなさいよ」と戒められていたというのに、あからさまに私情丸出しで思考に浸ってしまった。
それでも忸怩とした思いを押し殺し、金時は苦笑を浮かべた。申し訳なさそうに、そして困っていると見えるようなそんな笑みで「猫が、ね」とこぼす。
「猫? 金ちゃん、猫飼ってるの?」
「うん、ちょっと前にね、拾ったんだ」
「えー、どんな子どんな子?」
さっきの拗ねたような素振りから一変し、彼女は目を輝かせた。もともと猫が好きなのか、それとも金時のプライベートな話題に興味を引かれたのか、身を乗り出すようにして食いついてくる。
「毛並みの綺麗な黒猫だよ」
脳裏に愛しい姿を思い浮かべて、金時は微笑んだ。それを見て、女性がうっとりとした顔で頬を赤らめる。その姿からは先ほどの不安そうに拗ねた素振りなど掻き消えていて、さすがケツアゴメガネ――と金時は内心新八に拍手を送った。
猫にでも例えとけ、と金時に助言したのもまた、新八だ。土方のことで心ここにあらずな金時を見かねたのだろう、もし接客中にぼんやりして客に咎められたら、猫だとでも誤魔化していっそ心配してることを全面に押し出せ、などと言ったのだ。たとえ客自身が猫好きではなかったとして、お気に入りのホスト――金時が飼い猫のことで心を痛めていると知り、拗ねることはあったとしても怒ったり罵ったりまではしないだろう、というのが元ナンバーワンの読みだ。むしろ同情を引け、という狙いもあるらしい。
そして、その狙いは少なくとも今日の客である彼女には通じそうだ。それを察し、金時はほんの少しだけ顔を曇らせてみせる。
「その子が最近元気なくてさ。ちょっとね、心配なんだよねェ……」
「え……そうなんだ……」
「マキちゃんの髪、キレイだから、見てたら思い出しちゃった」
ごめんね、と彼女のその艶やかな黒髪をひと房掬い、唇を寄せて再度謝る。ちら、と上目で詫びいるように、それでいて甘えるように見つめると、彼女はぶんぶんと頭を振った。いいの、気にしないで、とワントーン高い声をあげた彼女の機嫌はすっかり元どおりになったらしい。否、それ以上だろう。結局時間を延長した――その間、金時は何度か他のテーブルに移動していたにも関わらずだ――彼女は、それでも帰るそのときまで上機嫌だった。
「また来てね」
店先まで見送りに出た金時が、待ってるから、と身をかがめて耳許でささやくと、彼女はうん、とくすぐったそうに首を竦めて笑った。
「早く元気になるといいね、猫ちゃん」
そんなことを言って、じゃあね金ちゃんまたね、とひらりと手を振り歩き出す。気遣うような彼女の言葉に胸がほわりとあたたかくなり、ありがと、と金時の顔にやわらかい笑みが浮かんだ。本当に、早く元気になってくれるといい――脳裏に浮かんだ姿に心からそう思う。
人波に消えたその背中をしばらく見送って、金時が店内に戻ろうとした、そのときだった。
「そこのおにーさん」
突然背後からそう声をかけられた。男の声だ。あ?、と胡乱げに振り返れば、見目のいい若い男が立っている。同業者だろうか、と金時は首をかしげた。着ているスーツは地味めのものだが、なにせ本人の素材がいいのだ。
「なァに、ナンパ? 悪いけど金さんまだお仕事中だからさ、中でゆっくり話そうよ。初回サービスでお安くしとくよ?」
もしくはホスト志願か――そんなことを考えながら金時が店内に案内しようとすると、青年は「いえ」とあっさり退けた。
「ちょいと訊きたいことがあるだけなんで、遠慮しときます」
「訊きたいこと?」
なんだ?、と眉根を寄せた金時へ、おもむろに青年が何かを示してみせる。それは警察手帳だった。開いて見せた中の証票には確かに青年の顔写真があり、その下に沖田総悟、と名前が書かれている。
それらを一瞥し、金時は青年刑事――沖田の飄々とした無表情に視線を戻した。
「おまわりさんが知りたいよーなことを俺が知ってるとでも?」
「この野郎を探してるんでさァ」
そう言い、沖田が写真を差し出す。それを見るともなく見やり――金時は思わず息を呑んだ。
そこに写されていたのは、土方だった。目つきが幾分きついものの、見間違えるはずもない。スーツにネクタイという姿は見慣れないが、黒のシンプルなそれは土方によく似合っている。
だが、何故警察が土方を捜しているのか――内心動揺しながらも面には出さず、金時は小首をかしげてみせた。
「いやー見たことねーなァ。どこの店のコ?」
「そーですかい? 二ヶ月くらい前、この辺りで見かけたってェ情報があるんですがねィ」
「んなコト言ったってねェお巡りさんや、「この辺り」を一日何人通ると思ってんの。おまけに二ヶ月前? んなもん、見てたとしても覚えてるワケねーだろ。男の顔覚えんの苦手だもん、俺」
本音にほんの少しの嘘をまぜて飄々と返すと、じっと金時の目を見つめていた沖田は、そーですかい、と写真をしまった。
「もし見かけたら連絡くだせェ」
代わりのように電話番号が書かれたメモを金時の手に押しつけ、それじゃあ、と踵を返す。沖田はすぐに雑踏に埋もれ、見えなくなった。けれど、その背中が見えなくなっても金時の心臓はバクバクと煩いくらいに強く鳴っている。
今すぐにでも駆け出したいほどの動揺を抑えながら金時は冷静を装い、店内へと戻った。
ぐるりとフロアを見渡せば、探した姿はすぐに見つかった。無言で新八を捕まえ、奥の事務室へと引っ張り込む。ちょっと、と新八が慌てたように金時を見やった。
「どうしたんです、金さん。顔色悪いですよ」
「お前、神楽から土方についてなんか聞いてねェか」
強ばった顔のまま金時が問うと、新八はぱちくりと目をしばたたいた。
「いえ、特に聞いてることはないですが……なんですか、急に」
「今、店の前で刑事だって奴に土方のこと知らねェかって訊かれた」
「え?」
土方を探しているのだと、その刑事は言った。探して――連れて行くのだろう、土方を。金時のもとから、土方を、連れて行くのだ。
嫌だ――と強く思った。絶対に土方の居場所を知られてはいけない――連れて行かせないためにも。
「……神楽が店に連れて来たとき、他の奴らにゃ見られてねェよな」
「ええ。神楽ちゃんは裏口から直接奥の部屋に入りましたから。金さんも裏口から連れて帰りましたよね?」
「ならこの店でアイツのこと知ってんのは俺とおめーだけだな」
その神楽は昨日日本に到着し、土方の様子を見にマンションを訪れた。しばらく日本に居られるようにする、と言っていたとおり、当分はこちらに滞在する予定らしい。
だが、この状況では神楽すらマンションに近寄らせないようにした方がいいのかもしれない。
取り乱したまま思考をめぐらせる金時に「……金さん」と困惑したような新八の声がかけられたが、それに取りあっている余裕などなかった。
だが、半ば恐慌状態に陥った金時の思考をぴたりと止めさせたのは、
「なんで警察に言わなかったんですか?」
そんな新八のどこまでも落ち着いた声だった。
「はァ!? なんでって……!」
何当たり前のことを聞くのか、と金時は信じられない思いで新八を見やった。
なんで、なんてそんなもの、土方を連れて行かれたくないからに決まっている。それに神楽からの言いつけもあるのだ、警察になど言えるはずがない。
だが新八は殺気立った金時に静やかな眼を向け、淡々と続ける。
「もし、「あの人」がなにかの犯罪に加担していたんだったら、隠すと金さんも罪に問われますよ」
「べつにそうとは決まってねェだろ」
「あの人が犯罪を犯していないとは言いきれませんよ、警察が捜す理由なんてひとつしかないんですから」
「なん――!」
怒鳴りかけて――金時はハッと言葉を呑んだ。頭から全身に冷や水をかけられたかのように、すっと憤りが鎮まる。
警察が捜す理由――なんらかの事件に関わっているか、あるいは捜索願いが出されているか、だろう。急速に鎮静した頭の中に、先ほど浮かんだことがぐるぐると回る。
ただの家出人なら――それが大人なら尚さら警察は特段捜索などしないと聞いた。だが、なんらかの事件に関わっている者などはその限りではない、とも。
ならば、警察が捜している以上、土方は何かの事件に関わっているのだろう。そして、もし捜索願いが出されているのなら、それを出した者が――土方に近しい者が存在しているのだ。
言葉を失い茫然とする金時に、新八が深々とため息を落とす。
「――金さんも神楽ちゃんも気にしてないみたいだけど、土方さんは記憶を失ってるだけで、本来の生活があるってことを忘れちゃ駄目ですよ。記憶を失くす前に何かあったのかもしれないし、心配してる人だって、いるでしょう」
確かに、新八の言うとおりだろう。
土方には記憶がない。その本人が全く気にしていないから金時も気にかけていなかったが、彼を心配している者がいるだろう。そんな当たり前のことに、今さらのように気づいた。
「いつかは記憶を取り戻して、自分の場所に帰る――そうなるのが最善だと思いますよ」
金時を気遣うように――けれど淡々と落とされた新八の言葉が嫌に響く。
「……土方の……」
そうだ、と呆けた脳内でぼんやり納得する。記憶を失くす前の、土方の生活――それが確実に存在するのだ。そんな当たり前のことが重くのしかかる。
忘れていた訳ではない。ない、とそう思っていた。けれど違う。金時はずっと、目を逸らし続けていたのだ。目を逸らして、目の前のあたたかさに逃げて、そんな現実から逃げていた。
それは、土方を失う、ということだからだ。
もし、土方を失ったら――否、ある意味既に失いかけているのかもしれない。頻繁に倒れては意識が戻らなかったり茫っとしたきりの土方に、失うかもしれない恐怖を金時は抱いている。
だからこそ治したい、良くなってほしいと願っていた。良くなれば全てが元に戻ると、そう思っていたのだ。
けれど――とその先に待つものを眼前に突きつけられ、金時は愕然とするしかない。
土方の容体が良くなったとしても、もし土方が記憶を取り戻して彼の場所へと帰ってしまうのなら――それは、失うのと同じことだ。
ゾクリと背筋を悪寒が走った。かつて全てを失ったあの絶望が蘇り、恐怖に心が塗り込められる。
金時は自分が再び絶望の淵に立っていることに、ようやく気づいたのだ。
おぼろで曖昧だった意識が少しだけ霧が晴れたように戻り、土方は自分がソファに転がっていることを認識した。
酷く頭が茫っとする。このところ、よくこんな風に突然頭の中が朦朧としては倒れることが多かった。金時が言うには、なかなか目を覚まさないときもあるらしい。
もとから家事などを手伝っている訳ではないが、金時に余計な手間や心配をかけていることが、なんだか申し訳なかった。
壁にかけられた時計を見れば、時刻は金時が勤めている店が閉店する頃だった。ならば今日は起きて出迎えることができる――土方は小さく息を吐き、ゆるゆると半身を起こす。
だが、土方が水でも飲もうかと起き上がりかけたそのときだった。不意にリビングのドアが開いて金時が姿を現し、土方は目を丸くしてしまった。
金時は帰宅時、かならずただいま、と声をかける。それは土方が倒れ、寝ていても変わらないという。だから、土方は自分が金時の声を聞き逃したのだと思った。途端、なんだか胸が苦しくなる。
せめて起きているときは、おかえりと出迎えよう――そう思っていた。それだけでも金時が嬉しそうにしてくれるから――だから、せめて。
「悪い、気づかなかった」
そんな苦しさから土方は眉をさげて謝る。けれど金時は何も言わなかった。無言のままダイニングスペースを通り、土方の方へと歩いてくる。
「……金時?」
初めてみる金時のどこか暗い様子に土方が首をかしげると、きつく抱きしめられた。土方の肩口に顔を埋める金時の姿は、まるで縋りついているようにも見える。
金時にこうして抱きしめられることには慣れているものの、その気配はやはり常になくどこか必死なように思えて、土方はどうした? と金時の背中を擦った。
ふわふわとした金髪が首筋に触れる。その感触がくすぐったい、などと思っていると、「ごめん」金時の静かな声が落とされた。
「お前にも、自分の場所がある、とか、考えてなかった。記憶、戻った方がいいんだって、わかってるつもりで、わかってなかった……。戻った方が、いいんだよな……」
でも――と震える声で続けた金時の腕も、かすかに震えていた。
「怖いんだ」
「……金時?」
「記憶、戻ればいいなって思ってる。その方がいいんだ、って、ちゃんとわかってる。でも、記憶戻ったお前が、ここから居なくなるのが怖いんだ。なあ、土方――」
わずかに体を離した金時が、土方の双眸を覗きこむ。その顔は酷く歪んでいて、金時は綺麗な顔をしているのにもったいない、と土方はそんなことを思い――今にも泣き出しそうなのを堪えているのだと、思い至った。
「思い出しても、俺の傍に居て? 俺の前から消えないで?」
お前が好きなんだ――と、そんな顔で懇願する金時に、土方はどうしていいかわからなくて、ただその背中を擦ることしかできなかった。
こんな風に土方の意思や決断を求められても、自分がどうしたいか、という思考や感情が浮かばないのだ。
あの、神楽に拾われた雨の夜から、心のどこかが麻痺してしまったままなのだろうか――土方はぼんやりと思う。
神楽は金時にプレゼントと称して土方を押しつけた。そのとき金時はいいのかよ、と困惑したように土方に問うてきたが、今でもいいも悪いも何も浮かばない。物扱いされることに、怒りも憤りも覚えないのだ。それくらい、どうでもよかった。生きるのも――死ぬのも。
土方には記憶の一部がない。
名前や幼い頃の淡い記憶は残っていたものの、ある程度の年齢以降の記憶がごっそりと抜け落ちている。土方を診察した医者――神楽の知り合いで闇医者だという爺さんだった――は、心因的なものだろうと言った。
ならばきっと、何か大切なものを失ったのだろう――他人事のようにそう思う。
きっと、心の一部を道連れに記憶を失ってしまうような、大切な何かをなくしたのだ。
記憶と一緒に抜け落ちたそこが、ウロとなって心の中に広がっているように、土方のなかはがらんどうだった。
髪や首筋に落とされた金時の唇が耳へと辿り着くと、好きなんだ、と甘い声がささやきを落とす。
好きだ、と、今までも何度も告げられた。こうして抱きしめられているときも、男の性を受け入れ抱かれているときも、いつも金時は繰り返し告げるのだ。
金時の腕の中はあたたかい。土方は目を閉じ、自分を抱きしめる金時に意識を集中させた。
その腕のあたたかさや、好きだと何度も告げる甘い声が、がらんどうになってしまった心の内を少しずつ埋めていくかのようだと土方は思った。
欠けた分を補い、満杯になったとき、そこから何が溢れるのか――。
今はまだ、それを知るのが怖かった。