Lotus Dream 08

 山崎が分厚いファイルを抱えて再びマンションを訪れたのは、それから五日後の昼のことだった。
 通したリビングのソファでは、先ほど倒れた土方が茫としたまま横たわっている。山崎はそんな土方の姿を痛ましげに見やりながらも、どこかホッとしたように小さく息をついた。
「この前、夜兎のお嬢さんからいただいたカルテとロートスのデータをもとに、超特急で分析してもらいました」
 ソファに腰をおろした山崎が分厚いファイルを示してみせる。金時が目線で促すと、
「実際に検査しないことには、はっきりとしたことはわかりませんが――」
 そう前置きをして、山崎はファイルを開いた。
「土方さんの症状は解離性健忘と同じような症例に見えるが、恐らくロートスの過剰投与により前シナプスでの神経伝達物質合成もしくは放出が抑制されているか、あるいは後シナプスにおける受容体のイオンチャネルが――って、わかりますか?」
「バカにすんな、わかるワケねーだろ! 日本語で喋れや!」
「主に日本語ですよ。まあ、俺もサッパリわかんないんで、簡単に説明してもらってきたんですが――」
 簡単に――と山崎が言うには、土方はロートスの過剰投与によって海馬や大脳皮質等、記憶野への回路が繋がりにくい状態になったと思われるそうだ。
「記憶を引き出しに例えるなら、手が届かなくって開けれない、って感じですかね」
「……でもコイツ、自分の名前とかは覚えてたぜ? マヨ大好きってのもスモーカーってのもな。つーか「大切なもの」を忘れるって、そーいう都合のいい記憶喪失ってあんの?」
 したり顔でそんな例え話をする山崎に、金時はふと疑問を口にした。あー、と言葉を濁らせた山崎がパラパラとファイルを繰る。
「えー……なんでも「記憶」とひと口に言っても色々と種類があるみたいでして……」
 しばらく紙をめくった山崎は、うん、とひとつうなずくと、ファイルを閉じた。
「……詳しいことはわかりませんが、とにかくそーいうことらしいです」
「投げただろ! おめー、自分がわかんねーからって投げただろ!」
「じゃあエピソード記憶とか手続き記憶とか言ってわかりますか!? 俺はサッパリですよ!?」
「俺もだバカヤロー!」
「とにかく! そんなことよりですね、問題なのは今のこの状況なんですよ!」
 逆ギレした山崎に怒鳴れば、さらにそれ以上の大音声が返ってくる。だが金時は、音量よりも内容にびくりと身を竦ませた。今のこの状況が問題だとはどういう意味なのか。
 山崎が言うに、医師の意見では恐らく土方は今、辛うじて繋がる海馬の一部かもしくは脳の別の領域を記憶野の代わりとして使っているものと思われるそうだ。つまりそれは、脳へ過大な負担がかかっている、ということだ。土方が頻繁に倒れるのもそのせいだと推測される。
 このままでは土方の脳は破壊されるか、医師らにも想像のつかない事態になるだろう――山崎は淡々と医師の言葉を伝えた。現に、今の土方の状態は、医師たちにとって既に不測の事態だというのだ。
「……脳が破壊されるって……」
 あまりにも容赦のない現実を突きつけられ、金時は茫然として横たわる土方を見つめた。
「このまま放っておけば、廃人になる可能性が高く……命の危険がある、ということです」
 山崎が悲痛そうな面持ちで、けれど冷静にそう答える。
 ――命の危険が、
 そんな――と愕然とする一方で、やはり、と納得している自分もいた。このままの状態が続いたら土方を失ってしまうだろう、という恐怖を金時はずっと抱いていたが、やはりその本能的な勘は当たっていたのだ。どこか感情が麻痺してしまったかのような脳内で、冷静に理解する。
 それでも他人事のように表情を変えない土方が、ただ痛ましかった。
「でもですね、記憶野そのものが破壊されてるワケでもないらしくて、そのー……」
 放心したように土方を見つめる金時に、山崎はそう話を切り出したが、言いにくそうに口ごもる。金時がゆるりと目を向けると、山崎は強ばった顔をしていた。
「……治療により記憶を戻すことが可能――かもしれない、そうです」
 そんな表情で、そう続ける。
 投薬治療によりシナプスの働きを正常化させ、記憶野へ繋がるようできれば、記憶も戻りそれで脳への負担も解消される――という。同時に感情、自我の欠如も、海馬の治療で回復するだろう、とそう医師は言ったらしい。
 土方の記憶が戻り、自我、感情も戻り、そして脳への負担が解消される――喜ばしいことだ。喜ばしいことのはずなのに、金時は何故か聞きたくない、と思った。
 何故、先ほど山崎はそれを伝えるのに口ごもったりしたのか――こんな表情をしているのか。
 それらに、じわじわと嫌な予感が生じた。
 ただ――と山崎が低く声を落とす。嫌な予感がさらに強まった。
「どうも記憶を失くしていた間の記憶――つまり、この二ヶ月の記憶ですね、代わりにそれが失われる可能性が大きい、と……」
 山崎が告げたのは、やはり金時にとって聞きたくない――迎えたくない未来のものだった。その瞬間、周囲の音が全て絶えたような、そんな気がした。
 土方の記憶が戻れば、彼は自分の場所へと戻るのだろう――そんな不安を抱いていた。それは、土方が自分の傍から居なくなる、という怖さだ。けれど、告げられた現実はもっと非情だった。
 土方に忘れられる、なんて――。
 金時が言葉を失っていると、キイ、とリビングのドアが開いた。
「聞きやしたかい、ホストの旦那?」
 やって来たのは神楽と沖田だった。室内の暗澹とした空気に頓着することなくずかずかと歩み寄った沖田が金時を見下ろす。
「アンタにしたら、この野郎の記憶が戻ってアンタのこと忘れちまうのは面白くねェだろうがねィ――」
 そう言い、沖田は睨みつけるかのように金時をじっと凝視する。沖田は金時と土方のことを――金時の土方に対する感情を正確に察しているのだろう。そんなどうでもいいことを悟った。もしかしたら金時が今の自我が希薄な土方に、一方的に手を出したことを怒っているのかもしれない。
 自失したまま沖田を見上げる金時に、沖田はわずかに目を眇めた。
「放っときゃあ土方さんは死んじまうでしょうよ……確実に」
 淡々と落とされた沖田の静かな声に金時は瞠目した。死んでしまう――と、はっきりと言葉にされたことで、現実を放棄したがっていた脳が動き出し、それだけは嫌だ、とそんな当たり前の結論が浮かぶ。
「それがわかってて放っておくワケにゃあいかねーんでさァ。こっちの内部に裏切りモンが居るってェのは確かに問題ですがねィ。それでも――ソレ、連れてかせてもらいますぜ」
「入院の手配はしておきました」
 沖田の毅然とした宣言に山崎が続く。一瞬静まり返った室内に、イヤ、と小さな声が落とされた。
「……イヤアル……」
 ぽつりとこぼしたのは神楽だった。
「トシちゃんに忘れられるの、イヤアル」
 正直な神楽の言葉に、金時も内心で同意していた。
 土方を死なせたくない、という思いは確りとある。だが、土方に忘れられたくない――そんな利己的な思いも金時のなかに確かにあるのだ。
 金時が何も言えずにいると、「でも」と神楽は顔を歪めた。
「トシちゃん死んじゃうのは、もっとイヤアル」
 そう言い、土方に抱きついた。
 土方の胸許に顔を埋めた神楽から嗚咽が聞こえてきて、先ほどの歪めた顔が泣き出す一歩手前の顔だったことに思い至る。
 神楽が泣くところなど久しく見ていない金時は、内心驚いていた。今まででの長い付き合いで、彼女の泣き顔を見たのは、金時と再開したあのとき一度きりだ。
 それからの神楽は、涙など全く見せない冷徹な夜兎の後継者としての姿を貫いている。平然と嘘もつき、ときには非道な手も策も用いて、黒社会の中をこんな年齢で渡り歩いているのだ。
 その神楽が、泣いている。土方が死ぬのは嫌だ、と子供みたいに頑是無い泣き声をあげている。
 その姿に金時は、諦観にも似た覚悟を噛み締めた。
 土方が死ぬのは嫌だ、生きていてほしい――土方に忘れられるという痛みを凌駕するほどの強さで、ただそれだけを思った。
 金時がそんな思いで神楽と土方を見つめていると、
「――旦那」
 不意に沖田から呼ばれた。顔をあげれば沖田はちょいと――と、手でついて来るよう指図する。
 訝しく思いながらも金時が沖田の後に続くと、リビングを出て玄関先まで進み――唐突に振り返った沖田が拳を繰り出してきた。みぞおち狙いのそれを咄嗟に手のひらで受け止める。
 突然のことに目を丸くする金時を上目で見やり、沖田はにやりと口の端をあげた。
「……夜兎の媛が常に傍近く侍らせてたボディガードだった、ってェのは嘘じゃねェみてーですね」
 どうやら沖田は金時の過去を調べ上げたらしい。金時はわずかに眉をひそめた。
 確かに、神楽に拾われて以降、金時は夜兎とは無関係の神楽個人に雇われたボディガード、という名目で彼女の傍らに付き添っていたが、実質は単なる神楽の遊び相手でしかない。変な誤解をされても困るのだが、とため息がこぼれる。
「なにコレ、なんかのテスト? それともケンカの押し売り? 悪りィけど買わねーぞ、そんなもん」
「なんでですかい? 俺が警察だからってんなら、そんなの気にするこたァねーですぜ。ときに男は拳で語り合うもんでさァ」
「ヤダ。だっておめー、土方の部下なんだろ? おまけに土方の「大切」らしいし? あとで土方に怒られたり嫌われたりすんのヤダもん、俺」
 沖田が殴りたいほどに金時のことを憎く思うとしたら、土方に関することでしかない。そうわかっていて敢えて口にすれば、沖田は思いのほか静かで真っ直ぐな目を金時に向けた。
「アンタのことは調べさせてもらいました。……正直、思うところはありますがね、でも――アンタは土方さんを裏切ったりしねェですよね?」
「当たり前だバカヤロー」
「……ならいいです。きっちり護ってもらいますぜィ」
 そう言い、沖田は拳を引いた。護る? と首をかしげる金時に、にやりと何事かを企んでいると丸わかりな笑みを向けてよこす。
「あのお嬢さんから聞いた話によると、明日は店休みだそうじゃねェですか。なんで、明日朝いちで土方さん病院に連れて来てくだせェ。ちぃと仕込んどきますんで――手ェ貸してもらいますぜ」
「……ってことはやっぱテストだったのかよ」
「当然でしょう、一般人巻き込もうってんですからねィ。せめて、自分の身ィ護れるくらいの腕がなきゃあ、こっちもヤベェんです――足ィ引っ張られるのは御免なんで」
 可愛くないことを言い置いて、沖田はさっさとリビングへ戻ってしまう。その後ろ姿に金時は苦々しく舌打ちした。





 神楽たちが帰ると、金時は土方をちゃんと休ませようとベッドルームへ運んだ。自分もベッドに腰掛け、土方の滑らかな髪を梳く。
 今日は店休んでいいアルヨ――そんな神楽の気遣いをありがたく享受しながら、飽くことなく土方を眺めていた。土方の姿を記憶に焼きつけよう、というそんな遣る瀬無い思いもある。
 不意に土方がゆるゆると瞬きを繰り返し、金時を見つめた。その表情は存外確りとしている。
「……金時、俺は……」
 どこか不安げに訊ねる土方に、心配しなくていいよ、とやわらかな笑みを向けた。
「ん……明日、一緒に病院行こうな」
「……病院?」
「うん。入院して治療すれば、記憶、戻るかもしれねーってよ。だから、行こうな」
 金時が努めて穏やかな口調を装い言うと、土方の瞳がゆらりと揺らいだ。
「そうしたら、俺は、お前のこと……」
「いいよ」
 土方が言おうとしたことを先んじて、金時はそう告げた。土方が驚いたように目を瞠る。さらりと髪を撫でながら、金時は微笑んでみせた。
「いいよ、土方。忘れていいよ」
 ――思い出しても、俺の傍にいて?
 その願いは今でも金時の胸の内にある。だが、それは叶わない望みなのだろう――それも理解していた。
 きっと、土方の記憶が戻れば――全てを思い出せば、代わりに金時と過ごしたあいだの記憶は失われる。そうして土方は、自分の場所に帰るのだ――金時のことを忘れて。
 本当は、嫌だと喚いている自分がいる。忘れないでと、みっともなく泣いて縋りたい自分が、金時のなかで暴れているのだ。身も世もなく泣き喚きながら、土方をただひたすらに求めている。
 金時がそんなわがままな感情を必死で押し殺していると、土方が嫌だ、と顔を歪めた。
「忘れたくねェ……!」
 その言葉に金時の心も揺れる。けれど、自分の我意と土方の命とでは、どちらを優先させるかなど比べるまでもなかった。
 それに、自分自身の命も何もがどうでもいいと言わんばかりな土方の姿は、見ていて哀しかったのだ。
 ――ホントは目つきの悪りィ、ヤな奴なんでさァ
 沖田や山崎から、記憶を失くす前の土方がどんな人物だったか、たくさん教えてもらった。
 以前、沖田に見せられた写真も大分目つきの悪いものだったし、ときおり口もガラも悪い土方に戻っていたから金時もわかっていたが、沖田は「そんなもんじゃねェですぜィ」と呆れたように言ったのだ。
 本来の土方は、とてもプライドが高く、そのくせ喧嘩っ早い物騒な野郎だというのだ。
 冷静で頭が切れるくせに熱くなりやすく、荒事には先陣斬って突っ込んで行く。そのくせ妙なところで涙もろくて、意外と初心で可愛いところもあるのだ――とは、山崎の言だ。
 ときおり垣間見えた、彼の素なのではと思った土方は、確かに本来の彼に近かったようだが、本当はそれ以上に強烈らしい。
 そして金時は、そんな本来の土方が見たいと思ったのだ。沖田や山崎の話を聞いているだけで、そんな力強く輝いている生身の土方がまざまざと浮かび――そんな土方に会いたと思った。
 当初の庇護欲を掻き立てる土方とはかけ離れているそんな土方にもまた、惚れているのだ。既に、どうしようもないほどに。
 だから――大丈夫だ。
「俺が覚えてるから。お前が忘れても、俺は覚えてるから」
 声が震えないよう、ちゃんと微笑って、なんでもないことのように――そう気をつけながら口にしたが、じわりと涙が滲んできた。
「もっぺんお前と一緒にいられるように、口説いて口説いて口説き倒すから」
 土方が、土方として生きていてくれればいい。そうしたらあとは金時しだいだろう。生きていてくれるなら、会いに行って口説くことができるのだ。
 どんなに時間がかかっても、たとえ金時の感情に土方が想いを返してくれなくても、それでも。土方が生きていてくれるなら、何度だって会いに行ける。会いに行って、愛を告げられるのだ。
 だから――と微笑んで土方の顔を覗き込む。滲んだ涙で土方の綺麗な顔がぼやけてしまい、それが勿体ない、などと思った。
「忘れて、いいよ」
 ぱたり、と金時の目から雫がこぼれ落ちる。表面張力が破れてしまうと、涙は後から後から溢れて流れた。
「金時……!」
 土方が両手を金時の首に回し、引き寄せるようにして抱きしめた。引かれるままに金時が乗り上げれば、土方が金時の目許に唇を寄せる。涙を舐めあげ、次いで唇に口づけられる。
 金時が驚いていると、土方の手が戸惑いながらも確りとした意思を持って動き出した。ボタンを外し、金時の服を脱がせようとする。土方から求められた――そうはっきりと理解した瞬間、金時の劣情が膨れ、弾けた。口づけを深め、貪るように口内を舐め回して舌を絡める。
 初めて彼の意思で求められたと思うと気持ちが逸りそうになるが、土方の負担もある。だからゆっくり時間をかけて進めようとしたけのだれど、土方がそれを拒んだ。いいから早く、と金時を促し、行為を急かす。
 そのどこか必死な様相に、時間がないのだということを思い知らされて胸が痛くなる。そんな思いを刻むように、体中に唇を落とし、至るところに痕を残した。
 がむしゃらに抱き合い、好きだ、愛してる、と繰り返す。それは、まるで世界がたったそれだけのような――世界に寄る辺がそれしかないような、そんなセックスだった。
 何度も土方のなかを穿ち、その奥に精を放った。
 こんな体液も、つけた痕も、とどめておけないことはわかっている。
 けれどせめて、この想いが消えることなく土方の中に残ればいい――そんなことを夢想して、泣いてしまいそうになった。

(12/11/28)